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愛をこめて…みかみ塾−本田屋
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  • 2012.09.14 Friday
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アメーバへ

jugemブログ(当ブログ)は、休止しました。

あらためて、amebaブログで書いていくことになりました。
まだブログタイトルが決まっていません。

移転というと少し語弊があるかもしれませんが、今後は、塾という視点にとどまらない、さらに別の視点で様々な記述をしていく予定です。
新しいブログは、ジャーナリズムでありエッセイであり、とにもかくにも、これまでとは違ったものになればと思っています。


本田屋&本田篤嗣 アメーバブログ



みなさまへ、ブログ更新の手を止めるお知らせです。

ブログを書いてきて、ずいぶんと長い時間が経ったように思います。
楽天ブログ時代から考えると何年書き連ねたかよくわりません。

多くの皆様に出会うことができたのは、まさにブログの力でした。

ブログとともに長い時間を過ごしてきましたが、mixiありtwitterありFacebookありとネット環境も大きく変化して来ました。
最近は僕の主な行動もFacebookを中心にしたものに変わって来ています。

ブログの役割もずいぶん変化したのだろうと思います。僕自身もブログ以外の媒体で書くことが多くなりました。

ということで…
一度このあたりで筆をおいてみようかと思います。

くれぐれも、ブログを書かないからといって書くことをやめるわけではありませんので。
これからも、より深い場所、より進化した場所を目指して、書籍や他メディア媒体などの場を中心に書いていきたいと思います。

また、日々の活動はこれまで通りFacebookで書いていく予定です。

シンプルに皆様とは別の媒体でお目にかかれればと思います。

書くという習慣は本当にすばらしいものです。みなさまも何かひとつでも、書くことにトライされてみてくださいね。

もちろん、永遠にブログを書かないというわけではないので、気が向いたときは時々書くかもしれません(笑)。



これまで当ブログを応援してくださったみなさまに感謝をこめて。

それでは引き続きよろしくお願い申し上げます。












「部活がすべてで、受験がすべった」(かねごん先生より)

美川先生(岐阜)も取り上げておられた大験セミナーかねごん先生(岩手)の記事より。
以下、引用(というより転載)です。
http://daiken.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-fe57.html


「部活がすべてで、受験がすべった」

勉強よりも部活を優先させる生徒、そして親御さんが増えている。

部活動での活躍や輝きは、確かに感動的であるし、ビジュアル的にもインパクトが強い。部活で勝利をという気持ちは分からない訳ではない。

しかしである。

例えば野球なりサッカーで飯を食べていける生徒は1万人に一人もいない。ほとんどが趣味や健康増進の生涯スポーツとしての路線を歩んでいく。

かく言う僕もそうだ。中学時代、部活が全てだった。シャレじゃないが、部活がすべてで、受験をすべった(‥苦笑い)。

一昔前は、4月が入塾のピークだった。今は中総体が終わる7月が入塾のピークになった。それどころか文化部だったりすると文化祭が終わってなどという生徒もいる。その分受験指導が大変になった。

4月から7月の閑古鳥が鳴いている時期に、基礎学力を鍛えてもらいたい生徒が入ってくるのなら、なんとか手取り足取り指導できるのだが、7月にどっと入って来られても、なかなか物理的に厳しいものがある。

部活が忙しくて春は塾に通えません。家での学習も宿題がやっとです。そんな声を多く聞く。

進学校を志望しなければ、どの高校も倍率が低いので、大丈夫入れます。という声も多く聞く。

しかしである。

低学力のまま高校に入れるにしても、先のことを考えれば基礎学力は猛烈に大切だと思う。高校で4年間授業をしてきたが、中学校での基礎力がどれほど大切かを痛感する日々である。

確かに部活動は人間関係や、根性を鍛えるという点では最高の学びの場ではあるが、読み書きの基礎力は生きていくうえで、それ以上に重要である。



部活については大きな問題だなといつも思っています。
中学の流れを組んで、高校でも部活に入るというのが自然の流れとして定着しています。
進学校でも同じ状況でずいぶん僕らの時代とは違うテンションがありますね。


大験セミナーさんブログ

美川先生ブログ





積極性

君はテーブルにつく。いつもの夕食の時間だ。
出されたお皿をただその通りに食べていく。
そういう当たり前の状況に気づかなければならない。そして自らお皿を取りに行くことをはじめなければならない。
これは勉強の話だ。
おおよそ小学校の低学年から中学年までの間は、何事も「やったもらえる」というのが「当たり前」でその「当たり前」に気づくことはないだろう。
ただ勉強の中心に手を伸ばすには、この当たり前から、君の成長と共に離れていかなければならない。
君が今小学の高学年かもしくは中学生だとしたら、これまでの勉強に「積極的」という日本語を加えていかなければならないのだ。
積極に勉強するということは、みずから学ぼうとすることを意味している。
これまで気づかなかったことや考えたことがなかったことに、「積極的に」手を伸ばしていこう。自分から動くというのは、これまでなかった世界に手を伸ばすことと同じなのだ。
積極性は君の世界を大きく広げてくれるだろう。

ぜひ立ち上がってお皿をとりにいってみてほしい。

勉強とは出てくるお皿を平らげることではなく、自分からお皿を見つけにいく行為だ。たとえこれまではそうでなくとも、これから積極的に足を動かし手を伸ばしてみてほしい。

大切なのは「自分から」。
いつも「自分から」という言葉を意識していけば、必ず新しい発見があるはずだ。


積極性が勉強にもたらす価値は大きい。






山口です

今日は山口市です。授業を終えています。
子どもたちはそれぞれにがんばってくれています。
体験授業や新しいメンバーも多く、こうした時期は毎回新たな発見や感動があります。
それぞれが前向きに進んでいってほしいなと思います。


周南です

今日は周南市です。小中の授業を終えたところです。
意欲の高い子達なのでしっかりがんばってくれています。

ところで、子どもたちの集団やグループでの振る舞い方はとても難しい課題を抱えています。
多くの子の集団の中での振る舞い方がまったく修練されていない状況です。下の学年にいけばいくこほど顕著になってきます。一対一の関係しか持てなくなってきているというのが現状でしょう。地域と学校での取り組みを真剣に考えていかなければなりません。



ずっともう現場は崩壊している話だけを聞かされてきた

僕はもうずいぶんと前から、ある一定の幅で社会が進んでしまった地域では、修練不足の講師が仕切る場およびどこに向かうかが共有されていない教育の場は、まったく成り立たなくなると言い続けています。
アルバイトを全否定するわけではないですが、アルバイトであればよっぽどの研修制度を持っているところ以外は成り立たないですし、その研修制度を持つためには正規の講師が「場を成り立たせる強い意志、もしくはビジョン」と持てていなければできないことです。
同時に、多くのベテラン講師にはもうすでに現代の子達を導くためのビジョンが持てない時代に入ったと見ています。

都市部および受験が成立している地域、もしくは社会の流れの遅れている(少し前の日本の日本的思想が守られている地方など)地域の話ではありません。全国を回っていると、都市部と古き良き共同体が日本人的思想とともに残っている地域では、まだ瓦解は起こっていないところも見ています。何度も書きますが、ここでの話は、受験戦争なるものがそもそも(都会の人間が思うほどには)存在しなかった地域であり、地方でありながら適切に現代社会の情報が流通している適度に都市化した地方の話です。

修練不足とヴィジョン不足の教育の場は、求められているレベルを考えるとすでに崩壊しています。ベテランだから、も全く通じません。いや、むしろ邪魔になるとさえ思える。そういう教育の瓦解。僕のみている地方は、全国各地を回った実感からして経験的に、より進化の進んだ地域ですし、今後、この流れを迎える地方が増えてくると考えています。
残念ながら、フランチャイズ系のところはおおよそ、相当に場が荒れて来ています。これは、単に確固としたカリキュラムを提示するだけでは(つまりそれはビジョンでも何でもないのだから)場は成り立たないということです。学校もそうですが、今の現場の問題は、カリキュラムにはない。今回の指導要綱でいえば、教科書改訂は(別の側面からは必要でしょうけれども)、アプローチでいえばカリキュラムを改善したということに過ぎないわけですから、本質的な問題解決にはなりえません。

学校が荒れ、頼りである民間の教育の場までが壊れてしまうと、「それでいい子」達が増えていきます。これは大問題です。それでいい子、というのは、「どこへ行ってもそのままの振る舞い方」が許される子です。自己満足や我欲だけを「個性」と勘違いし、取引的ないわゆる消費行動で勉強を続けていく。とてもではないですが、これからの社会でテーマになるであろう「共同体」など築けるはずがない。そうした「それでいい子」達が、「あるがまま」でいいという言葉を取り違え、「そのまま」の自分で生きていく。社会が成り立たなくなるという失望感・危機感以外に何を抱けばいいのか。

ビジネスの世界は、その体質ゆえに、時代を読むということに敏感な世界です。多くのビジネス論では今、子ども達はより創造的な未来に向かっている、新しい世代の子達が新しい世界を生み出そうとしていると論じています。けれども、単に楽観視できない。子ども達の深層心理を分析し、その結果すばらしい世界観や価値観を持っているとでもいうような発想を持っているビジネスマンはごまんといるでしょう。僕もそれについては多く勉強して来ていますし、実際に希望ももっています。
けれど、教育者的に発想するならば、あるがままだとか個性だとか新しい感性だとか言った言葉はとり間違えると危ない。やはり楽観視ができない面を多分に含んでいるのです。

誤解をおそれずにいえば、子ども達は自然に放っておいて育つのではないということでもあります。勝手に、それこそ自由気ままに生きていけば、子ども達自身の自我はしっかりと育ち、自立へ向かうというのであれば、教育が存在する理由がない。なぜ教育そのものが存在しているかに立ち返れば、放任主義が教育の主眼ではないということはわかるはずです。


いずれにせよ、公も民も、教育の場が崩れ始めています。このまま大きくなった子達にはいずれツケを払う日が来てしまうという意味ではすでに崩壊していると僕自身は見ています。

周囲の現場が崩れていくことの悲しみは深いものです。
僕らは最後の砦のようになってしまっているという現実は、喜べる現実ではないからです。


カリキュラムや仕組み、それこそテキストや勉強の内容そのものさえよければ、子ども達の教育は成立しうるという幻想は、道徳観や思想なき現状では通用しない。
周囲のフランチャイズの崩れる音が多く聞こえて来たのは、そういう原因を内在していることに気づかなかったからです。また気づいていてもヴィジョンがなかった。せめてその場の対応策があれば違った。ただもうそれすら「わからない」、打つ手がなくなってきているのです。

こうした状況の中、修練をつまない講師で子ども達を導けると自信を持っていえますか。
カリキュラムや仕組み、「提供するコンテンツ」がしっかりしているというだけで、子ども達の現況に対処できるといえますか?
子どもというものの性質をよく知るベテランの講師ですら、手のうちようがない(もしくは軍隊式一辺倒でやれているつもりになる)状況で、成り立つ場を、修練とビジョンのない場所で対応できるといえますか。

ただこのまま、成立していない場の中で学び続けることは、子ども達にとってマイナスにしかならない。「そのまま」でいい子達は、これでも許されるということを続けるだけ。その状況を目にして、社会はどこに向かっているのか、希望を持って発言できる人がいますか?
地域、地方の教育の現場は今、かつて感じたことのないほどの危機感を抱くに至っているのです。


ともかく、ひたすらにカリキュラムだけで制御しようという場所やヴィジョンを持たない場所では太刀打ちできない。

以前も指摘しましたが、facebookでどこかの先生がコメントされていました。
それはこうです。「学校では集団のような授業は成り立っていないので、塾も同じだろうと考えられて、塾に来てくれなくなった」と。
地域のあらゆる場所で崩壊が繰り返されることは、たとえ僕らの場所が特別な形で成り立っているとしても、もうそれも理解されることが難しくなるかもしれない。僕らにヴィジョンがある、手法があるといっても、それすら理解されなくなるかもしれない。
悲しい現実をさらに突きつけられている気がしています。


最近はもう「○○に通っていたけど、しゃべっていても注意されなかった」と言って、ここに移って来た子に会ってもうれしくないのです。「なぜしゃべったらいけないのか」だとか「なぜ立ち歩いたらいけないのか」を不思議に思う子が大量に育っている。ほとんど今これを読んでいらっさる大人のあなたでは理解の範囲を超えてしまうはずです。意味がわからないと。子ども達にも意味がわからないのです、なぜ注意されるのか、なぜ話したらいけないのか、立ち歩いたらいけないのか。
こうして確実に同じような民間の場が壊れていくのを見せつけられて、嬉しいはずなどありません。

なぜなら、子どもという同じ存在を育てている意味で、僕らは皆仲間であり、同じ共同体にすら属していると僕は思っているから。その意味で学校も同じ(だが先述の通り、僕の知る範囲の学校は僕の求めるレベルでいえばすでに崩壊している)。
たとえ別々の場所で別々の子であったとして、子どもという同じ存在を育てているという自覚と責任において、僕にとってはすべての場がつながっている。
そのつながりを感じる中で責任感も危機感も日々増していく。

「隗(かい)より始めよ」それをずっとやって来た。理論と実践を伴わせ、結果を出して来ました。


気づかないまま公は「そのままの公」で来た、その責任は重いのです。
国単位でなく、地方単位、現場単位でもあってもです。
ツケを払うのは、大人だけなく、いずれ来る社会を生きる子ども達であることも忘れてはならないのです。


僕は僕にとっての「隗」をただひたすらに実行し続ける。ブロックは一つずつしか積めず、苗は一本ずつしか植えられない。劇的な改革というものは本来教育にはない(そもそも惰性の強いものでなければならない)。ただそれでも一本なら植えられる、一個なら積める。

その一本が何なのか、公も民も、皆が真剣に考えねばならない。


そういうときに僕は今、来ているのだと感じています。










ほっぷさん連載『勉強が未来を創る』(学校について考えよう)

ご紹介がすっかりおそくなりました。
ほっぷさん(4月13日号/周南版)の連載「勉強が未来を創る」(月1連載)もすでに9回に入りました。
具体的な勉強の話でしたが、今回からは教育のお話へと突入します。タイトルは「学校について考えよう」です。
そろそろ少し難しめのお話に突入したいと思います。
ちなみに一回だけの読み切りものでは書ききれないので、続き物になっています。

学びとは何かを考えること消費になってしまった勉強の仕方や通学について考えます。是非、一人でも多くの方に、地域や学びについて考える機会をもっていただきたいと思っています。
今後や地域活性化自立化、そうしたものも考えながら地域のみなさんと教育を考えていければと思います。


「ほっぷ」バックナンバーはこちら。
iphoneやipad、android対応版も出ているみたいです。





あわせて、ほっぷさん関連で
こちらの市民文化大学もご紹介を。一回目(浅田次郎さん)二回目(清水寺貫主森さん)、次回は櫻井よし子さん。すごい講師陣です。一回目二回目とも僕も参加しています。




学びと消費との関連性を少しばかり仕事からさぐってみる

個および個性を第一主義とする現状況の加速は、消費の主体として、自己の利益をとことん追求するという姿勢をより強固なものに変えていく。
働くということも、消費主体として一義的に捉えてしまうと、理解できないものの一つになるのだろう。労働と給与の関係性は、等価交換ではない。そもそも成り立ちからして等価交換されないよう宿命づけられているものだからだ。
勉強も仕事もこの点で同じようなものである。何事も等価交換されなければ気が済まない主体として、スタンドアローンの存在であり続ける限り、労働も学びもその本意を見失うだろう。


ここに面白い記述がある。以下、引用。

【「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」というものがある。そして、「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」という考え方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである。別に私は道徳訓話をしているのではない。私が知る限り、「仕事のできる人」というのは、例外なく全員「そういう人」だからである。】
(内田樹氏・ブログより)http://blog.tatsuru.com/2008/12/20_1033.php


内田氏の当該記事のこのあとの展開とは異なるが、ここでは、まずはこれを表面的に受け取り、そのような振る舞いがなぜ仕事のモチベーションとして表現されうるのか、また、「仕事ができる人」の代名詞となり得るのかを、学びと仕事の両面から考えてみたい。
誰の仕事でもない仕事が実は誰にでも見えるというわけではない(もしくは今後の若い世代はそれらの存在すら見落としてしまう恐れがあるのではないか)という、氏の論よりも、より初歩的なところから、ここでは論じてみたい。


学ぶという行為に必要なのは、使い方のわからない何か、一体何のために必要なのかわからない何か、の必要性を感じ取れる直感のようなものである。何の役に立つのかわからないものを、それでもなお自分の懐に入れてみて、しかもいつかそれが役に立つかもしれないという「あやしい」「違和感」を許容できるかどうかにかかっている。学ぶということは、最初から役に立つとわかりきっているものを反芻する行為ではない。よくわからないものをよくわからないままに学ぶ、それが学んでいる者の姿なのである。
だが多くの人は、「私は、必要なものだとか必要としているものだとかを、私自身ですでに見極めているから、それを売ってください」と言いながら学び場へ行く。もちろん学び場とは学校である。私(生徒)が必要としているものがあるので、それを提供してくれるあなた(教師)と等価交換しようとする。これが学びが消費感覚で行われている姿である。このような消費者としては当然だと思える振る舞いが許された場合、学びは発動しない。教師の多くはそれを知っている。
学びというものは、その受け手が学ぶ前には、自分が支払うコストに対して支払われるそれが等価であるかどうかがわからないものだ。消費感覚で入ると間違える。たとえば、一般の人(大人)が、セミナーに行くのにお金を払ったり、資格を取る勉強をするのにお金を払ったりする行為と同一視してはならない。それは等価交換でしかない。本質的にいえばそれは学びとは言い難い。
学びに等価交換で入れば、間違える。今や教育の現場で平然と行われている。教師からみれば、親と子が学びを学べなくしている張本人でしかない。あわせて、文科省もそれを助長する政策を無自覚に(またはあえて無知のベールをかぶったまま)学校という仕組みを助長し続けている。

仕事について話を進めよう。
学びにおけるそれがなにかわからないが、それでも直感的に学びを続けられるという行動は、いずれ働くという行為においても役に立つのである。先述のとおり、「誰の仕事でもない仕事」を「私の仕事だ」と感じることができるのは、ある意味で霊的な直感力である。「目に見えない何か、得体の知れない何か」である「境目のはっきりしない仕事」を、我が使命として受け取れる感覚。こうした学びの前提とされる直感力が、学びにおいて鍛えられているとき、やがてやってくるであろう仕事の局面で発揮されるということに他ならない。
その意味で「仕事のできる人」は、消費主体的発想である等価交換のみで物事を捉えない人であり、よりよい学び手であるとも言える。
先日も述べたが、天職のようなものもこれに同じで、「なにかわからないもの」を感じられない者は、天職を手に入れる日は永遠に来ないだろう。


このように、仕事と仕事の境目にも、学び手としての力能、消費主体としての意識が見え隠れする。
ここでの消費という問題を皮切りに、教育の現場もさらに新しい局面を迎えている。地域、地方の独自性も含んでいるがゆえに、都市部の方の想像上の地域論だけでは十分だとは言えない。仕事にも通ずる学びの力を学べる場を各地域のスケールでも考えていくことが必要だと考えている。










おりてゆく子たちとおりた子たち

岐阜の美川先生に先日の記事について書いていただいております。

「本田先生の記事より」
さらに岩手小林先生からも「学び舎小林先生より」

両先生方ありがとうございます。



以下、美川先生より
小林先生もやはり同じ危機感を持たれています。
今では「こんなはずではなかった。」というより、
「自分の子どもが何を考えているのかわからない。」と
お悩みのお母さんが増えています。


現在お子様をお持ちの皆様の中にも実感されておられる方が多いでしょう。
別次元の背景を持つ他者として目の前にあらわれてしまった我が子。しかもその我が子も(そして親であるその人自身も)、すでに絶対的に完成した自己を持っていると認識した存在として、両者が関わっていくというのが現代の絵です。



話を主題に戻しますが、降り始めているというのは、苅谷氏の研究時点で見え始めていた傾向ですが、すでに時は流れてしまっています。
すでに勉強(ここには受験という選抜制度があるのですが)から「降りた」子で満たされています。ある特定の階層の子達を除けば、多くはすでに降りていて、降りた子達に対して、「学び」の特異性に背を向けずに、この先どのように対処することができるのか?が問われていると言ってもいいでしょう。現場の流れというのは、時間の流れを一時的に止めある特定の瞬間を切り出さざる得ない研究よりも驚異的に速い。そういう意味で小中の現場はすでに降りた子達で満たされていると言ってもいいでしょう。ある特定の要因から一昔前の気質を持ちえた子どもたちを除けば、降りた子なのです。実は、真剣に勉強に取り組もうと目の前で奮闘する子達の多くでさえ、一度降りたところを、なんらかの要因で学びという動的世界に偶然に巻き込まれた子にすぎないと見ています。

すでに降りたところからのヨーイドン。
これに対処するには、どうしてもネットだとかデジタルだとかいった彼らを取り巻く新しい環境
による自己形成の過程に視点を向けなければならないでしょう。そうであるなら、もはや数年前の文献すら半分は役に立たないのです。
さらに地方は地方独自の分析と研究があってしかるべきだと考えていますので、このあたりも各地域の独自性や民族性さらには階層や文化などを持って考量されることを期待します。


この続きはいずれまた。






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Mr.Honda(ミスターホンダ)
=本田篤嗣(ほんだあつし)
経営者(本田屋代表)・塾講師・受験生専門歌手・ココロトークアーティスト
みかみ塾-本田屋(山口矢原・宇部・周陽・下松・光教室)
4月20日生まれ。
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